日本語教育にいろいろ愚痴を入れてみた

盲導犬への命令が英語である理由に対するツッコミ

盲導犬などの、訓練を受けた犬に命令をする時には、全て英語が使われる。これは、日本語だと方言や男言葉、女言葉などによって犬が混乱してしまうおそれがあるため。
Twitterではこういう雑学豆知識ツイートが一日中流れ続けている。ほとんど自動投稿による物。
いわば「コピペ論文」と同じ類で、キチンと文章を読まずに切り貼りしているだろうし、自分の意見を語らないアカウントはまず絶対にフォローしない。

なお、これに対する私のツッコミは以下の通りだ。
よって、正しく言い直すなら次のようになる。
盲導犬などの、訓練を受けた犬に命令をする時には、ほとんど英語が使われる。 これは、どうせ日本人の話す英語などワンパターンに決まっているから、犬が混乱してしまうおそれが無いため。
母語だと余計な感情が入りやすいから、慣れない外国語をあえて使う、というくらいなら一理ある。
たまたま見つけた中部盲導犬協会のWebサイトでは『命令語は、母国語であり使いやすいという理由から、基本的には日本語を使用しています』との記載があり、そういう方針もあって然るべきだろう。
日本語を使うデメリットとして「人間どうしの日常会話と犬に対する命令との間で混乱が生じる」とする意見もあるようで、それについてはうなづける。
犬にとっては人間の言葉なんか何語でもいいんだから、ことさらに日本語を避ける理由はあんまり無いと思う。

「女性が使う」「男性が使う」を疑う

しばらくの間、語学交流サイトHiNativeに入り浸って、あらためて痛感したんだけど、とにかくなんでもかんでも男女別にしたかる風潮をものすごく感じた。
ネット上のやりとりだからユーザ層は分かりにくいけど、昭和の時代よりもむしろ平成になってからじゃないかな、「性差の大きい言語」としての固定観念が鮮明になってきたのは。
HiNativeの日本語の質問には1日3回 "used by male" という回答が付いてるわけだが、しまいにはこれだよ。
「『単刀直入』って使いますか?」という質問に対し「男性なら仕事で使うだろうけど女性はあんまり使わないと思いますね」
……んんん、ついに四字熟語にまで侵食してきているのか、重症だなぁ(この件については私とケンカになり、今は削除されている)。
そこまで言うなら根拠となるデータを示してもらいたいが、さすがにこういう回答はね…遠回しに女は勉強できないと言ってるようなもんだから、非常にマズいよね。
一方、こちら側に「いいね」した人の回答が「使いますよ。『単刀直入に聞くけど私のこと好きなの?』」…すばらしい。
逆に男性差別バージョンもあって、たとえば「男は『お』とか『ご』とか付けない」とか、こういう発言も男としてはそこそこ腹立つよ。

日本語の教科書というのは一般に「とあるご夫婦」の会話をモデルにして書かれている。
これは特定の個人のことを言ってるわけではなく、とにかく「ある夫婦」なのだ。
私にも何をモデルにした物なのか、さっぱり分からない。
夫はいつも威張っていて理詰めで考えるのが好き。妻は自己主張は強いが口に出すのは苦手。
そんなお二人の性格が反映されて、言葉遣いも互いに違ったものになる。

しかし庶民の言葉に目を向けてみれば、言葉の男女差なんてそんなに大きいはずがないのだ。
親の役割のひとつとして「子どもに言葉を教える」ことがある。
それひとつ取って考えても、ママと息子で、パパと娘で、言葉遣いに文法レベルの違いがあるというのは考えにくい話である。

「素敵は女性の使う言葉か」にもツッコミを入れると、人生で素敵な物を見つけてない人はみんな、死んだ魚のような目をして道を歩いてる。
いい仕事をしてる男だったら、この製品が如何に「素敵」であるか、目を輝かせながら語ってるし(笑)。
実際、間投詞的に「すてき!」とか普通に男性でも使ってるね。
また例えばタイ王国でも、男性の育児参加が少なければ「จ๊ะ」という語尾を使う男性も少なくなるだろう。
けどそれを見て「จ๊ะ」は女言葉だと決めてしまうのは「ちょっと待て、本来のニュアンスを見失うなよ。」という話である。

日本語教師のブログを見てると「女の子にはこう優しくしゃべってほしいなぁ」という個人的趣味がいろんな所からにじみ出ている。
いつでも仏の顔でいられるほど現実は甘くないから「寝言は寝て言え」だぞ、君たち。

女言葉・男言葉の何が問題なのか

女も男もそれぞれの理由から発言を自粛しがちな部分があり、そのツケとして今日でも「男はこう、女はこう話すべき」という固定観念が不気味に残存している。
とりわけ「女言葉」の方が槍玉に挙がるけれど、あれは致命的な文法エラーを抱えているので、特に気持ち悪く感じるのもまあ当たり前なわけで…。
この「女ことば」なる物で常々気になるのは「時間がないわ。駅が見えてきたわ。あそこの建物よ!」と、さんざん語尾の「わ」ばかり使ってたくせに、名詞述語の部分でなぜ突然に「よ」を使い出したのか。
どういった発想からそうなるのか、ちょっと説明が欲しいんだけどな。

いずれにしろ、性別云々ではなく「これが自分が言葉だ!」という心構えでどんどん発言していくことは大事だろう。
しかし本件は単なるジェンダー問題だけにはとどまらない事態になっている。
あまりにも執拗に男女口調分けされた翻訳が市場に出回った結果「外国人はこういう話し方をするもんだ」という別なステレオタイプを生み出し始めているからだ。
あなた自身、街で欧米・中東・アフリカ風な顔立ちの人とすれ違った時、どういう言葉遣いの人に見えてくるかな?
ほんちょっとした色眼鏡が「自分と同じ人間である」という意識を遠ざけてしまい、どこかで globalization の足を引っ張ることになる。

女言葉・男言葉を始めとする役割語文化を守りたがる人達の拠り所は、いわゆる「日本語特殊論」というヤツで、世界に例がないと思い込んでる以上は捨てたがらないだろう。
しかし日本以外の世界を単純化して見る癖も、そろそろ直さないといけないね。
たとえば黒人英語やピジン言語と同じようなカテゴリを作って、オネエ言葉やら何やらと標準文法とをしっかり区別しながら共存させる…そうしたほうがお互い幸せかもね。

ひとつの根本原因として私が考えているのが、母国語に対する無理解。
仮に翻訳スタッフに女言葉を禁じたとしても「じゃあどうしたらいいの?」という顔しかできない。ネイティブ日本語会話の仕組みを知らないから。
機械的に「だわ」を「だよ」に変換したからって自然な言葉にはならない。そもそも「よ」の使い方すら理解していないから。
ニュアンスを分からないまま「いいじゃん!」「よくね?」という口調に切り替えたってダメで…。
それは「若者言葉」という別の役割語を生み出しているだけだから結局、違和感は残り続ける。

言葉の自由のために

私自身はポリコレ(言葉狩り)みたいな事は、やりにくい。
文法ナチ(グラマーナチ)から庶民の言葉を守ることも同時に考えないといけない。
ひとつ懸念している事は、単なる著作表現にすぎなかった役割語(つまり作者が独自に考えた口癖)が、日本語の教材の中にどんどんはびこって来ている事。
最悪の場合、国語の授業で「会話文から人物の性別を読み取れるようになろう。人物の性別が分かるように文章を書こう。」なんて事をやり始めないとも言えず、それだけは避けなければいけないと考えている。
また、今みたいに女性語・男性語という扱いのままにしておくと、そのうち性差別的な言葉だとして糾弾される未来が目に見えている。
ですから例えば「笑うと負けよ〜♪」のような言い回しには「間投助詞」などキチンとした文法用語を与えることもまた大事なのだ。
例えば女性キャラが「〜のよ。」を使っても、それだけでは直ちにダメ出しはしない。
逆に、女性キャラが「〜んだよ。」を全く使わない事についてはダメ出しをするし、男性キャラには「〜のよ。」の上手な使い方を習得してもらおうと思う。

私が「女言葉・男言葉をやめよう」と言っている他の理由は、言葉の自由・表現の自由に立ち返るため。
男性の使えない言葉・女性の使えない言葉という掟に縛られながら小説を書くのは、私だったら窮屈だけど皆さんはどうだろうか?
実際、あの制限の中では感情の強弱コントロールができないと思うけどね。
漫画で「てよだわ言葉」のキャラがうっかり「行くよ!」とか言っちゃう場面には何度か遭遇してきた。
これは「行くわよ!」ではこの気持ちを表現できない、というネイティブとしては至って正直な反応なのだ。
下手に作者を刺激すると、せっかく場面にマッチしてたのに「行くわよ!」に直されちゃう恐れもあるので、余程でない限りは言葉遣いへのツッコミは入れないけどね。
「言葉遣いでキャラを区別する」事と引き換えに「一人当たりの言葉の豊かさ」を損なうトレードオフの関係を分かってくれれば良いかと思っている。
間違っても「男女の違いが分かるように台詞を書くこと」がルール化されるような事はあってはいけない。

この文化は守るに値するものなのか?

命令形に関してはジェンダー問題と直ちに結びついてしまうが、「女言葉」には「キャラ語尾」特有の問題もついてまわるので…。
性差別の問題だけでは済まなくて、歪んだ「日本語特殊論」にまで話が広がってくんだよ。
単純に「女性や外国人の権利」だけを振りかざしても、報道記事に出回る女言葉をやっつけることはできない。
彼らは絶対にこう返してくるから。日本語は誰の発言なのかを語尾で区別できて優秀だとか何とか言って。
「役割語による発話者の区別」だが、私はメリットを感じていない。
ふたりとも同じ性別でふたりとも老人だったらどうするの?まずそこを疑おうよ。
発言ごとに必ず終助詞が現れるわけじゃないから、区別できるとしても効果は限定的じゃん?
いや、少なくとも個々人の性別や年齢は分かるかもしれないが、それにはステレオタイプを広める必要があるので、今から人為的にそれをやるというのは危険思想だね。
それに結局は、キャラごとに使える語尾を制限してるだけだから、逆に日本語の本来持っている表現能力を殺してしまっていると思う。

朝日新聞の校閲センターが書いてるコラム「ことばの広場」で、政治の記事で見られた「秋波を送る」は性的なイメージもあるから女性相手には避けた方がいいとか。
そこまで細かい配慮をしておきながら「てよだわ言葉」は完全にスルーって、かなり重症だよね。
翻訳での変なキャラ付けをやめさせるきっかけは、日本が本気で移民政策に動き出せるかどうか。
生身の人間相手に翻訳・通訳でサポートする機会が増えれば、今度こそ本当にキャラ語尾で遊ぶことはできなくなるから。
(ただ、私が校閲センターにメールで指摘した辺りから、どうも何らかの変化が見受けられる…このまま様子見と行こう)

ところで、漫画の世界の女言葉ルールはなかなか複雑で、一律に「てよだわ言葉」にすればいいわけじゃないらしい。
「主人公および対等目下は女言葉なし」「ただし主人公の補佐役は女言葉のですます体」「母親や教師など主人公の目上は女言葉」「ただし他所の家の母親は女言葉なし」「ただし道端の主婦は女言葉あり」「お年寄りは女言葉なし」……などなど、適用ルールがものっすごく複雑。
そもそもこれは著作物としての表現であって文法ではないので、みなさんが漫画を描く時、これに従う必要はない。
何かのはずみで間違って文法規則の中に組み込まれてしまえば、日本語は世界一複雑で非合理な言葉になる。
けど、私はそういうことは、したくない。

オネエ言葉キャラに設定されたとしても、ひとたび「主役」として焦点が当てられると急にオネエ言葉をやめてしまうんだなぁという事を、とあるドラマを見て気づいた。
例えば「てよだわ」ルールに従うと「へえそうなんだ」「いいなあ〜」に対応する表現も無いので、素直な気持ちをポンッと口に出せるような言葉遣いではない。
なので例えば『3月のライオン』で「あかりさん」がうっかり女言葉を解除してしまったセリフ、そこに登場人物の本音、ひいては作者の本音が隠れているという読み解きができるわけよ。

女性のことばかりを話しているけど、もちろん「男言葉」というのもある。
例えば「んだ」の過剰使用など、実際の男性は「んだ」と「の」を使い分けている。
これはパッと見では我々の話す言葉と似ているので、気づきにくい。
けど、ウチのサイトをよく読んでいただければ、現実の日本人とは異なる男言葉にも気づくようになるだろう…と思う。

タイの女性たちのマシンガントークを君は翻訳できるか

タイ語の漫画を趣味でファンサブしてたこともあるけど、お察しのように、私は女言葉を使わずに翻訳している。
ジェンダーバイアスを勝手に拡げてしまっては原作者さまに失礼だからというのもあるし、文法的にきちんとした言葉を書きたいという気持ちもあるからだ。
今時の日本の漫画だってそうだけど、タイ漫画の女性もスラングをフル活用したAggressiveな会話をしてくるから、てよだわルールをあてはめるとその辺のニュアンスがいろいろと消し飛ぶんだよ。
タイの女性の会話力はすごい。タイの人たちはひとりで何種類もの1人称を使い分ける。

それからタイ語には色々な語尾表現があるので、タイ日翻訳では語尾まわりの和訳を、100%直訳とまでは行かなくてもルール化することは可能だ。
問題は、たかだか「ค่ะ / ครับ」を再現するためだけに女言葉男言葉を持ち出してくるか、ということだが…。
まあ、それは断る。ただでさえ数の多いタイ語の語尾にそれぞれ2通りの翻訳パターンを考えるとか、そんなことやってたら倒れ込むよ本当に。

あ、そうそう、タイ語のですます体にあたる語尾は、女性は「ค่ะ」男性は「ครับ」を使うということで、ここは教科書どおりに話されているらしい。
文字で見ると印象が違うけど耳で聞いたらわずかなイントネーションの違いだけだし、男女で語尾が別れるのはこれしかない。
口調を和らげるという語尾「นะ」は女性語だと思われがちだが、そう思っているのは日本人だけで、現地の人はみんな使っている。
汚いスラングは女性も普通に使うし、タイ語でもやはり言葉の男女差はごくわずかだ。
それでも安直にオネエ言葉に手を出すヤツは100%ド素人だと思ってよい。

タイ語の語尾表現については現在鋭意研究中なので、気づいたことがあれば「ごったい」というサイトにも情報提供していく予定。
文末表現を使う言語どおしならある程度の直訳は可能だと考えてるので、なおさら怪しいキャラ語尾を挟み込む余地は無いはずだけどね。

男を立てられても、べつに私はうれしくない

悪いけど、まだまだ愚痴は長い。
英語達者な女性とお会いした時に彼女は「可愛げが無くてすみません」だなんて答えていた。
それ以来、私は「好きな女性のタイプ」を聞かれたら「頭いい人」と答えることにしている。
ふと気がつくと自分の周りにいる女性は、男性に対してやたらめったら腰が低すぎて心配になる。

いちおう性別「男」である私が「茶碗、皿、急須、魔法瓶、鍋」に手を出すと、決まって女性陣による「あ、いいですよ、やりますから」タックルが襲いかかってくる。
ここで甘えてしまうと相手のためにもならない。「私の好意で、私が先に手をつけたのに、それを横取りしようとは何だ。」と、洗い物を死守し、流し場にタッチダウン。
正直、女子諸君はもっと「自分でコーヒーくめよ。皿ぐらい自分で洗えよ。」ぐらいの態度で来てくれたほうが良い。人が茶を入れてやろうってのに、横から割り込まれるとイラつくんだよ。
そもそも私は同僚であって目上ではない。客である女性にお茶を入れてもらうという、迎える側として屈辱的な事もあったが、無論断った。いろいろ間違ってる。

と、話が逸れたが、つまり実際に「てよだわ言葉」で演じているのは女性自身なんだから、その本人から「ERの現場でこの言葉遣いは萎えるだろ」みたいな疑問が上がって来ないのが変だなぁ、というわけ。
今の女性は「女子力」という言葉に弱いから、万が一にも女子力とこじつけて「女性は命令形を使わない」んだとか言ったら「へえそうなんだ、気をつけます」とか言ってそのまま飲み込みそうな雰囲気があり…。
そんなこんなで、どの言語でも根幹を成している「命令表現」が日本語から失われてしまう事を危惧している。

私にはむしろ「女三人寄れば姦しい」という状況が恋しい。日本語研究のための貴重な会話サンプルの宝庫だ。
型にはまった言葉遣いに囚われず、多様な言葉を使いこなしてほしい。

まったくの余談「こういう距離感はダメだと思う」

ごく一部のファンがアイドルに傷害を加える事件が2〜3件起きてから「アイドルとの距離感」が語られるようになった。
ただ、彼らの言う「距離感」がどうも「単なる逃げ」のように感じてしまうことがあった。
自分が巻き込まれるのは面倒だから、ただ遠くから見ているだけ……これでは無責任だ。
「会いに行けるアイドル」っていう路線、それ自体は悪くなかったと私は思う。
当然プライバシーには立ち入らないけれど、必要以上に距離をへだてて「特殊化」するのも好きではないので。

ついでだから、それと似た話を挙げる。
NHK特番「バリバラ2」で「障害のある人が、面白い顔をやってみせる」ビデオ企画があってね、
そういう時に「モラル、道徳、倫理」を語る人の「倫理」というのは、実は相手の気持ちや社会のためなんか全然考えていない。
自分ひとりだけは誰からも批判を受けずに、のうのうと暮らしたいだけ。
これも倫理という言葉でごまかした「単なる逃げ」であり、まことに卑怯千万でござる。

次は日本語オノマトペ研究に愚痴を入れる

さてさて、外国語の勉強がある程度進んでくると、そのうち擬音語・擬態語も知りたくなったりするけど。
それを先生に聞いてみたところで、大概「そんな物はない」って答えしか返ってこないよね。
擬音語・擬態語は、言語学の中では軽く見られてきた経緯があり、学問としてはまだ未熟な分野なのだ。
だから、ちゃんと教えられる人も少ない。
日本語オノマトペ研究も一部で盛り上がってるみたいだけど、あれはあれで、なんだか暴走気味で見てられないし。やれやれだぜ。

何が本当の豊かさなのか

「○○語は豊かな言語である」という時に、何をもって豊かであると考えるかは、大きく分けて次のふたつがある。
(1)ひとつの事を表すのにたくさんの言葉があるから豊かだ(色彩がある)
(2)たくさんの事を表すのにひとつの言葉だけで済むから豊かだ(深みがある)
互いに相反している。そしてこれが、自分の母国語を世界一豊かな言語へと仕立て上げるための小賢しいトリックとして働く。
このことだけ注意しておけば「○○語は世界でも稀な○○な言語だ」っていう話がいかに恣意的な論理であるかが分かるはずだ。
具体例をあげるとしたら「いただきます(saying grace)」とか「よろしく(take care, up to you)」がある。
(ちなみにイスラム教徒には食事の始めと終わりの挨拶がある)
毎回使える言葉をひとつ持つのと、その都度いろいろな言葉を使うのと、どっちが本当に豊かと言えるのか。

オノマトペの粉飾決算

擬態語をリストアップしていくと、擬態語と呼べるかどうか不明な物も含まれてくる。
極端に言うと文法上では「擬態語」なんていうカテゴリは作らない方がいい。線引きが曖昧だからだ。
日本語オノマトペ研究が暴走気味だと先に述べた訳は、「二度繰り返してる」「促音がある」「とりあえずひらがな4文字だから」という単純な理由だけで見境なくオノマトペのカテゴリにぶち込みまくっているから。
おそらく、普通の語学から横道に逸れて、音象徴の中にまで踏み込んでしまっているんだろう。
音声という観点から言語を研究していこうとすると、しまいには全ての言葉はオノマトペになるのだ。
しかし日常会話の中での「しっかり」「がっかり」「ゆっくり」は、あくまでも副詞として使っているだけだし、それを擬態語だとか言われても個人的には「え??」という感じである。
「副詞」と「オノマトペ」の区別と整理をきちんとした方がいいんじゃないか、とも考えていたが、両者を区別しようとするのがそもそもナンセンスだと突っ込まれた事がある。
文法面から見たら「副詞」になり、音韻論から見たら「擬態語」になる、とりあえず今はそんなふうに考えている。


無いと思ったら即ゲーム終了

タイ語と日本語でどっち側に翻訳するのが難しいか、という題材のブログ記事を見つけてしまって、読んでみたらびっくり、クソを通り越してキモかったのでリンクを貼る気にもならない。
いわば典型的な「日本語特殊論」だけど、さすがにあそこまで徹底して酷い記事は初めて見た。

えー……タイ語を勉強するためのコンテンツも増えて来て、けっこうネットで独学できるようになったのは良いけど。
やっぱり「タイ語 擬音語」でググっても情報を得るのが難しい状況だった。
おまけに「タイ語は基本的に擬音語がない」などとほざいているブログが出て来るという寂しい状態だったもんで、私のサイト上で急遽、タイ語の擬音語特集ページをアップした。

で、そいつのブログは、発見当時は検索順位が上の方にいたと思うけど、今はウチより下がっている。
さらに例のブログ記事を読み進めていくと「タイ語の語彙の少なさ」「日本語の表現のはかりしれない広さ豊かさ」と出て来る。
確かにタイ語は少ない語彙でも何とかなりそうな感覚はあるけど、実際にタイ漫画の翻訳をやっていて、自分の日本語のボキャブラリーの少なさに戦々恐々とさせられまくったからね。
なめてかかると痛い。
おまけに後半部分は「タイ語に擬音語がない」を前提に語ってるもんだから、なんか不自然な観点になってるしさ…。
一度「無き物」と決めつけてしまったら、フィルター越しにしか物が見えなくなり、出会いも発見も少なくなってしまうのだ。

「タイ料理屋のオーナー夫婦」にクルクルやってみせたら「手をつかんでまわす まわす」というタイ語しか教えてもらえなかったと言うが、それは聞き方が良くないんだ。
それは日本人に日本語を聞いたって同じだと思うよ。アメリカ人がwhirlwhirl言いながら手を回して「これ日本語でなんて言いますか?」「(ん、なにを手を動かしてるんだ?)えーと日本語では、手を、回す、って言うかな?(無難な回答)」……とか。
ネイティブスピーカーと外国語教師は全然違うので、急にそんなこと聞かれてもうまく答えられないかもしれない。
こうやって質問すればいい。「まわすと同じ意味の言葉を20個ぐらい教えてくれますか?」
そこまで言えば、まあ、いろいろな表現を頭の中から絞り出してくれるだろう。

いつかの朝日新聞のコラム「海外ボランティア前に楽しい旅を」の内容が良かった。
「よく知りもせずに、いきなり援助したいというのは、その国に対して失礼。『貧困や無知』を勝手に想定し、そこで援助したいと希望する人には、きつい言い方ですが、その人の発想の『貧困と無知』がすでに見え隠れしています。」
この記事に乗っかって私もきつい言い方をするが、くだんのブロガーもこれに当てはまる人なんだろうな、と思った。

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